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〝父子〟で求め続けた再会かなわず 飯塚繁雄さん死去

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横田めぐみさん(57)=拉致当時(13)=の父、滋さん=享年87=が昨年6月に他界したのに続き、田口八重子さん(66)=同(22)=の兄、飯塚繁雄さんも北朝鮮に拉致された肉親と再会を果たせぬまま、逝ってしまった。飯塚さんの闘いは、田口さんの長男、耕一郎さん(44)とともにあった。

 

田口さんが姿を消したのは昭和53年6月ごろ。東京・池袋の飲食店で働き、2歳の長女と1歳の耕一郎さんを育てていたが、2人をベビーホテルに預けたまま行方が分からなくなった。

 

 

飯塚さんには3人の子がいたが、耕一郎さんを引き取り、養子とした。「この子を何としても守ろう」。実子と同じ愛情を注いだ。

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田口さんが失踪した9年後の1987(昭和62)年11月、世界を震撼させるテロ事件が起きる。大韓航空機爆破事件。実行犯として身柄を拘束された北朝鮮の金賢姫(キム・ヒョンヒ)元工作員(59)は、翌88年1月、韓国・ソウルで記者会見を開き、衝撃的な告白をした。

 

「『李恩恵(リ・ウネ)』という日本から拉致されてきた女性から日本人化教育を受けました」。公開された似顔絵を見たとき、飯塚さんは、どことなく妹に似ているように思えた。ある日、埼玉県警の捜査員が訪ねてきて、「妹さんかもしれません」と告げられた。事情聴取を受け、田口さんの仕草や嗜好などを事細かに話した。

 

日本の警察当局はソウルに捜査員を派遣し、金元工作員から「李恩恵」に関する情報を徹底的に聞き出し、国内の行方不明女性のデータと照合。出生地や誕生日、家族関係など数十項目全てが田口さんと一致した。金元工作員は捜査員が示した複数の写真の中から迷うことなく田口さんを選んだ。91(平成3)年5月、「李恩恵」の身元は田口さんと断定された。

 

だが、飯塚さん一家は「テロリストの協力者」などと、心無い報道被害に遭う。繁雄さんは、中学生だった耕一郎さんをただ守ろうと思った。

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真実を明かしたのは、耕一郎さんが21歳のとき。耕一郎さんがパスポート作成のために取った戸籍謄本から、養子であることが知られた。「実は、お前はお父さんの1番下の妹の子なんだよ」。すべてを話した。

 

「えー、そうなの?」。耕一郎さんの反応は意外にも淡々としたものだった。

 

日朝首脳会談が行われた14年9月、北朝鮮側は拉致を認めたが、田口さんについては「死亡」と伝えてきた。証拠は何もない。飯塚さんは身分を明かす覚悟をし、ようやく家族会の活動に加わることを決めた。

 

初めて臨んだ記者会見。「田口八重子の兄です」と名乗り、「妹は『死亡』と宣告されたが、私は信じておりません」と訴えた。16年2月には耕一郎さんも加わった。

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Former U.S. President Barack Obama meets families of abductees (2014)

 

家族会結成から10年間、代表を務めた横田滋さんに代わって2代目の代表に就任した。当初は3年間の約束だったが、14年間も家族らの先頭に立ち、被害者の奪還を訴えた。

 

政府が北朝鮮に被害者の再調査を求めていた27年4月、当時の安倍晋三首相と面会した際には、「率直に申し上げますが、われわれは拉致被害者の確実な帰国を譲ることができない」と述べ、調査報告書などは「必要ない」と明言した。家族会代表として、田口さんの「あんちゃん」として、強い姿勢で拉致被害者の帰国にこだわった。

 

「政府には『工程表』を示してほしい」。飯塚さんがここ数年、繰り返していた言葉だ。政権は拉致問題を「最重要課題」と掲げるが、進展はない。「工程表」という言葉には、長くものづくりに携わった飯塚さんが「いつまでに、何をするのか」を具体的に計画することで、政府に救出への道筋をつけてほしいという思いがにじんでいた。

 

自身に残された時間の短さを認識し、飯塚さんは「納期」という言葉も頻繁に使っていた。田口さんとの再会を、耕一郎さんと一緒に迎えることはできなかった。その無念さを思うと、言葉もない。

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筆者:橘川玲奈(産経新聞)

 

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