[日本の名馬]“英雄”ディープインパクト:世界的名馬はなぜ愛されたのか(下)
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初の年長馬相手に挑んだ2005年の有馬記念は、4歳馬ハーツクライの後塵を拝して2着。初黒星を喫したものの、文句なしの年度代表馬に選出された。
翌2006年は始動戦の阪神大賞典を楽勝すると、続く天皇賞・春ではレースレコードで快勝。2度の坂越えがある淀の3200メートルの長丁場で、常識破りの残り1000メートル地点からのスパートという、異次元のパフォーマンスだった。武豊騎手も「これ以上に強い馬がいるのかなと、思うくらい強い。海の向こうに行っても期待してください」と世界制覇へ自信をのぞかせた。
この時の走りが評価され、日本の調教馬として初めて「世界ランク1位」にもなった。
そして、5月上旬に陣営は世界最高峰のレース・フランスGⅠ 凱旋門賞への参戦を表明。ファンの期待がさらに高まる中、壮行戦の宝塚記念はあいにくの稍重馬場だったが、ぬかるんだ馬場も全く苦にせず勝利。凱旋門賞が行われるロンシャン競馬場は日本とは違って時計がかかる重たい馬場だけに、試走としても十分に思われた。
迎えた10月1日の凱旋門賞。およそ6000人の日本人が遥々フランスまで応援に駆けつけた。場内の単勝オッズは1.5倍の1番人気。NHK総合でも生中継され関東地区の平均視聴が16.4%と、深夜の時間帯では驚異的な数字だった。誰もが日本馬初制覇を期待したが、〝飛ぶ走り〟ができず3着。武豊騎手が「このレースの悔しさは忘れられません。今でも夢に見るほどです。ディープと味わった無念は、いつか凱旋門賞で晴らすしかないと思います」と語るほど、ショッキングな敗戦だった。
傷心帰国のディープに、2つの衝撃が襲った。10月11日、年内の引退、種牡馬入りが正式に発表された。その8日後にはさらに大きな衝撃が日本中を揺るがした。凱旋門賞後の検査で、ディープインパントの体内からイプラトロピウムという禁止薬物が検出されたのだった。
最強馬を襲った衝撃の大騒動。スポーツ紙だけではなく、一般紙、週刊誌、ワイドショーまでがディープ陣営を追いかけた。さまざまな憶測が飛び交い、〝薬物に対する認識の甘さ〟や、〝故意に使用して競走能力を高めたのでは?〟というドーピング疑惑さえまことしやかに囁かれ、陣営を非難する声や記事があふれかえった。
矢面に立つ池江泰郎調教師の心労はピークに達していた。それでも、真摯に取材に応じ続けるなど、毅然とした態度を貫いた。最終的には3着が取り消され失格となったが、吸引治療の際に禁止薬物が寝ワラに付着したものと発表され、ドーピングや不正使用では一切なかったことが証明された。
引退まで残り2戦。ジャパンCと有馬記念は、絶対に落とせないレースとなった。もし負けるようなことがあれば「薬がないと勝てない」と思われてしまう。その中で、陣営はひとつのこだわりを貫くことを決めた。引退まで一切の獣医師に診せず、治療行為をしないというものだった。本来なら疲労回復のために注射を打つ状況でも、スタッフの手でマッサージを施し、ダメージが蓄積しないように調教メニューも工夫を凝らした。そして、迎えたジャパンCで誰もが待ち望んだ復活勝利を飾ると、武豊騎手とスタンドを埋め尽くした12万人が万歳三唱。それは、衝撃を超えて感動の光景となった。
ラストランの有馬記念も、いつも通り後方から徐々に進出。直線は鮮やかに〝飛んで〟前年2着のリベンジを見事に果たした。大円団で幕を閉じたディープ劇場。最終レース終了後に行われた引退式では、5万人のファンとカクテル光線がディープの門出を祝った。
生まれ故郷の北海道に戻ったディープインパクトは、種牡馬としても規格外だった。ディープのDNAを受け継ぐ子供たちは、競馬界を席巻。2010年に産駒がデビューを果たすと、2歳馬の種牡馬ランキングで1位を獲得。2012年からは産駒の収得賞金の合計がトップのリーディングサイアーに君臨し、欧州でデビューした産駒もGⅠレースを制している。初期は1000万円だったディープの1回の種付け料は、世界最高レベルの4000万円まで高騰するなど大成功を収めていた。
別れは突然やってきた。2019年2月18日に首に痛みが出て、24頭に交配した時点で種付けを中止。その後に手術をして成功したが、7月29日に容態が急変。起立不全の状態となり、検査の結果、頸椎の骨折が判明した。回復の見込みがなく、再手術も不可能なことから、翌30日に安楽死の処置がとられた。17歳。人間で例えるなら、おそらくは50代前半という若さだった。
武豊騎手は「私の人生において本当に特別な馬でした。凱旋門賞制覇の夢はかないませんでしたが、ディープが世界一の馬だったと僕は今でも思っています。凱旋門賞をディープの産駒で行けたら勝ちたいという気持ちはあります」と語った。
すでに2011年に調教師を引退していた池江泰郎氏は「もう少し長生きしてほしかった…。調教師として夢のダービーを勝たせてもらったし、宝物のような馬だった」と、その死を心から悼んだ。
熱狂、感動、涙…。ドラマチックな馬生で、日本のみならず、世界の競馬界に名を刻んだディープインパクト。ディープが走った2005年、06年は「格差社会」という言葉が流行した。閉塞感に包まれた不確実な時代のなかで、人々は強さと愛らしさを兼ね備えた、真のヒーローを待ち望んでいたのかもしれない。「英雄」といわれた絶対的存在。1頭のサラブレッドが残した衝撃は、人々の心の中で、永遠に走り続けている。
筆者:鈴木康之(元週刊Gallopディープインパクト担当記者)
■ディープインパクト 2002年3月25日、北海道早来町(現安平町)のノーザンファームで生まれる。鹿毛。父サンデーサイレンス、母ウインドインハーヘア、母の父Alzao。馬主は金子真人ホールディングス(株)。現役時代は滋賀県栗東トレーニングセンターにある池江泰郎厩舎に所属。戦績は14戦12勝2着1回、失格1回(うち海外1戦0勝)。馬名の意味は英語で「深い印象」。表彰歴は2005年JRA年度代表馬、最優秀3歳牡馬、06年年度代表馬、最優秀4歳以上牡馬、08年JRA顕彰馬。05年7月発表のレーティングで日本馬初の「世界一位」に。獲得賞金14億5455万1000円。引退後、社台スタリオンステーションで種牡馬入り。2019年7月30日没。
2020年サンスポZBAT!記事を加筆修正したものです
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