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水面に映る光の移ろい捉えて 仏ジベルニー 「モネ 連作の情景」の源流へ

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モネの代表作のひとつ「薔薇の中の家」に描かれた風景=8月(三井美奈撮影)

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フランス印象派を代表する画家クロード・モネ(1840~1926年)の作品60点以上を一堂に集めた「モネ 連作の情景」(産経新聞社など主催)が10月20日から東京・上野の森美術館で開かれる。ノルマンディー地方ジベルニーでモネが半生を過ごした家を訪ね、作品の魅力を探った。

 

門をくぐると、屋敷の向こうにピンクのバラのアーチが見えた。モネの代表作のひとつ「薔薇の中の家」に描かれた風景が、そこにあった。竹林の先には池が広がり、モネの愛した睡蓮が白い花を咲かせていた。水面は鏡のように岸の緑を反映し、風が吹くとさざ波がキラキラと輝く。

 

《薔薇の中の家》1925年 アムステルダム市立美術館 Collection Stedelijk Museum Amsterdam

 

ジベルニーはパリの西方約80キロ、セーヌ川沿いにある小さな農村。北フランスの柔らかな陽光があふれる。モネはその風景にひかれ1883年、42歳で移住した。庭造りに情熱を注ぎ、創造の源泉とした。

 

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モネは生涯に、睡蓮の連作を250枚以上描いた。ひらめきを得た瞬間をこう回想している。

 

「睡蓮を理解するには時間がかかった。描くことを考えず、ただ花を育てた。…突如として池に夢のような世界が現れ、私はパレットをつかんだ」

 

モネが見つめ続けたジベルニーの「睡蓮の池」=8月(三井美奈撮影)

 

モネ作品を多数所蔵するマルモッタン・モネ美術館のエリック・デマジエール館長は、「モネは『光の画家』です。水面に映る風景を通じて、朝夕表情を変える光を捉えようとした。それが、睡蓮の連作になった」と話す。

 

連作の手法を確立したのは、「積みわら」からだ。モネはジベルニーを散歩中、近所の畑で干し草の山に目を留めた。ありふれた田園風景が朝夕、季節によって表情を変える。その様子を何枚もキャンバスを並べ、写し取った。「積みわら」は高く評価され、画家として出世作になった。

 

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《睡蓮の池》1918年頃 ハッソ・プラットナー・コレクション © Hasso Plattner Collection

 

風景の一瞬を切り取るような作品は、日本の浮世絵の影響も受けた。欧州では19世紀末、ジャポニスム(日本趣味)が流行し、モネは200枚以上の浮世絵を集めた。自然を描く大胆な構図にひかれた。睡蓮の池にかかる日本風の橋は、歌川広重が「名所江戸百景」で描いた太鼓橋に着想を得たとされる。

 

デマジエール館長は「モネが世界中で愛される画家となったのは、長生きだったことも大きいのですよ。86歳で亡くなるまでに2千作以上を残した。作風の発展に彼の人生が投影されています」とも言った。

 

モネ作品の魅力を語るマルモッタン・モネ美術館のエリック・デマジエール館長(三井美奈撮影)

 

貧乏画家だった青年時代、モネはよく家族を描いた。日本初公開となる「昼食」は20代後半の作品だ。幼い長男ジャンを囲むにぎやかな食卓の風景は、幸福感にあふれている。

 

1870年に普仏戦争が勃発すると、徴兵を逃れてロンドンに移住した。戦後帰国してからも定期的に訪英し、ウォータールー橋など、ロンドンの風景の連作を残した。

 

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1914年、ジャンは病死し、第一次世界大戦が始まった。ジベルニーがある北フランスにも戦火が迫った。モネは暗い世から目をそらすように、睡蓮の連作に没頭した。キャンバスに描いたしだれ柳に、戦争犠牲者への鎮魂の思いを込めたとされている。

 

移ろう光や空気感を明るい色彩で描いた印象派。モネは33歳の時、ルノワールやドガと共に新しい芸術を目指して「第一回印象派展」を開いた。来年は、それから150年にあたる。

 

筆者:三井美奈(産経新聞パリ支局長)

 

 

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「モネ 連作の情景」東京展は来年1月28日まで。一部作品を変更し2月10日から5月6日まで大阪中之島美術館に巡回する。

 

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