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ジェームス・E・アワー氏を悼む 生涯にわたる指導と支援に謝意

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第31回正論大賞贈呈式で挨拶をする正論大賞受賞者のジェームス・E・アワー氏と妻のジュディさん =2016年3月7日午後、東京都港区(産経新聞)

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ジェームス・アワー氏ほど日米両国の安全保障の絆の深化に貢献した人物はまずいないだろう。その貢献の背後には日本への温かいまなざし、そして日本との協調がアメリカの国益にも資するという愛国者的ともいえる熱い心情をも感じさせた。

 

アワー氏のJAPAN Forwardへの寄与も大きかった。この英文メディアの7年前のユニークな出発時点から事実上の顧問かつ主要な寄稿者として一貫して貴重な支援を続けてくれた。それだけに彼の逝去はなんとも惜しまれる痛恨事である。

 

アワー氏はアメリカの海軍、国防総省、さらに民間の大学にあって長年、日米同盟の両国への効用を説き、実践した。単なる親日という次元ではなく、日本との緊密な関係はアメリカの国益にも寄与するとする自国の利害を実利的に考える姿勢でもあった。しかし同時にアワー氏が日本側の友人や知人への心温まる支援を長年、重ねてきた友愛の軌跡はさらに忘れがたい。

 

第31回正論大賞贈呈式でチャーチルの本を手にした安倍晋三首相(当時)の祝辞を聞くジェームス・E・アワー氏(中央)=2016年3月7日午後、東京都港区(長尾みなみ撮影)

 

私がアワー氏を知ったのは1979年、カーター政権時代だった。現役の海軍士官だった彼は掃海艇勤務で佐世保に、駆逐艦勤務で横須賀に、という日本駐留を終え、国防総省の日本部に所属していた。ワシントン駐在の新聞記者として私がペンタゴンの日本部を取材に訪れると、アワー氏はいつも丁寧に応じてくれた。

 

だが日米防衛関係は1979年末から大きく変わった。それまで軍事には積極的ではなかったカーター大統領がソ連軍のアフガニスタンへの全面侵攻という危機に直面して、日本に対しても「着実で顕著な防衛費増額」を求めるようになったのである。しかし防衛や軍事への忌避が強かった日本側はなかなか応じなかった。アワー氏はその難しい対日防衛関係に懸命に取り組むようになった。

 

1981年には共和党保守のレーガン大統領が登場した。ソ連に対してはアメリカ自身の大軍拡で抑止するようになった。日本へのさらなる防衛増強の期待も強くなった。なにしろ当時の日本は防衛費は国内総生産(GDP)の1%以下と宣言していた。その数字が4%に近いアメリカとは対照的だった。この時期にアワー氏は国防総省で日本部長に正式に任命された。

 

レーガン政権下のアメリカでは日本に対する経済面の不満が高まった。自動車、鉄鋼、半導体など日本製品の対米輸出が勢いを増し、アメリカ産業界を屈服させるようになったのだ。米側では日本の経済脅威論や防衛面での「ただ乗り」非難が高まった。そんな流れのなかでアワー氏はアメリカ政府を代表する形で日本との防衛関係を深化させていった。同氏は難局を日本側に国際情勢の危険性を説き、安保協力を少しずつ引き出す形で和らげていった。その背景ではレーガン大統領の対日政策では経済面の衝突を防衛面に波及させない防火壁(ファイア・ウォール)の設置という原則も機能していた。

 

アワー氏は根幹では温かさを感じさせる視線を日本側に向けながらも政策面ではアメリカ政府を代表する厳しさをみせた。ときには日本側の消極的平和主義(パシフィズム)を無抵抗主義とも呼び、「火事が嫌いだから消防署をなくそうとするに等しい」と、痛烈な批判をすることもあった。同氏は結局、この日本部長のポストを8年も務めた。その期間、中曽根・レーガン時代を主体に日米同盟はかつてなく強化され、効果ある機能を果たすようになったといえる。アワー氏の功績は大だった。

 

ナッシュビルの日本国総領事館を訪れたアワー夫妻。アワー氏は2008年、旭日中授賞を授与された(ヘレン・アワー・ジラードさんのFacebookより)

 

民間に転じたアワー氏は新たな拠点を南部テネシー州のナッシュビル市に定める。中西部出身で南部にはなじみのなかった彼がテネシーに移った最大の理由は愛妻のジュディさんが故郷に住みたいと願ったことのようだった。アワー氏は89年からナッシュビルの名門バンダービルト大学の教授となり、「日米研究協力センター」を開き、所長となった。

 

それ以後の30年余、彼の民間での活躍はさらにめざましかった。日本をアメリカにとっての対等に近い貴重な同盟相手にしようと多様な努力を続けた。日本の防衛を自縛するアメリカ占領軍製の憲法も改正を明確に主張した。自衛隊の国連支援の海外出動を促し、日本の集団的自衛権への禁忌を批判した。

 

だがアワー氏の民間での活動で最も顕著だったのは日本側の友人知人から中堅、若手の後輩まで、アメリカでの研修や教育への長期の支援だった。その多くがアワー氏が教えるバンダービルト大学での勉学や研修という形をとった。受け入れた日本側の人物たちを夫妻がそろって心のこもった個人的な世話をすることでも知られていた。その受益者の多数がいまの日本の政界や学界、言論界で活躍している。この受け入れではアワー氏の助手のミチコ・ピーターソンという日本女性の役割も大きかった。

 

アワー氏のこの個人レベルでの日本側への支援は、本当によくここまで、と感嘆させられるほど、寛大で親切で、きめ細かった。しかも同氏にはその支援を宣伝するような態度がまったくなかった。私利とか名声の意識には縁のない、ただ人間としての温かさから自然にわいてくるようにみえる活動だった。その支援を受けた側では人生が劇的に好転するほどの成果があったような実例を私自身、よく知っている。

 

私自身もこの期間のアワー氏との交流はさらに親密となった。彼が日本側でも私の知らない領域の関係者たちとの緊密な絆を保っていることに改めて感嘆させられた。その絆は当然ながらみな日米関係の安全保障面での協力の深化という主題に基づいていた。その背後には民主主義や人権尊重という普遍的な価値を共有する日米両国の友好という大きな目標が広がっていたといえよう。

 

アワー氏はこの種の民間活動の一端としてJAPAN Forward (JF)へも多大な支援をしてくれた。日本の多数派の意見や政府の政策を英語により外部世界に広く知らせるという趣旨のこの英文メディアの出発時から彼はその意義への共鳴を強調し、アメリカ側の協力者たちを引き寄せてくれた。彼自身も頻繁に論文や記事を書くという主要な寄稿者にもなってくれた。JFが日本でも有数の英語メディアとして海外での広い認知を得るにいたった現在、その発展にはアワー氏の貢献も明らかに大きかった。JFの特別顧問という立場でその経緯を目撃してきた私としてもアワー氏への深い感謝を改めて述べたい。

 

子供たちと写真に納まるアワー夫妻=2009年(在ナッシュビル日本国総領事館提供)

 

実子のいなかったアワー夫妻は日本生まれのテイ、韓国出身のヘレン、アメリカ生まれのジョンエド、という3人を養子とし、実の子供と同様に育てあげた実績もある。3人とも立派に成人した。テイさんは音楽の道を歩み、いまは公立学校の音楽教師、ヘレンさんは日本でのJETプログラム(若いアメリカ人大学卒業生の日本での国際関連勤務制度)を5年も果たし、いまはナッシュビルに戻って学校教員、そしてジョンエドさんは父親の足跡を追うように海軍軍人から海兵隊勤務となり、アフガ二スタンなどでの軍務を終え、いまも海兵隊将校という立場にある。

 

3人ともアワー夫妻が手塩にかけて育てる長い年月を私自身も目撃してきた。とくに初等・中等教育は学校教員だったジュディさんが3人にホーム・スク―リング(家庭でのプライベートな教育)を実施するほどの特別の愛情を注いでいた。そのジュディさんもつい最近、亡くなって、アワー氏を悲しませていた。

 

この夫妻の足跡を博愛とか思いやり、人道主義という言葉で特徴づけても決して誇張とはならないと思う。ご冥福を祈りたい。

 

筆者:古森義久(JAPAN Forward特別顧問)

 

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