Whales in the Japanese Landscape part 5 Sekobune

Sekobune whaling ships from a diorama owned by the Taiji Whaling Museum.

捕鯨船の絵図(太地町立くじらの博物館所蔵)

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古式捕鯨は人間とクジラの壮絶な戦いでもあった。長い戦いの終わり、クジラを仕留めた漁師たちは念仏を唱えてその魂を冥途に送った。クジラの親子の情愛を利用して捕獲する厳しい現実。捕鯨船の極彩色に補陀落浄土信仰との関係を見いだす研究者もいる。

 

大阪市東淀川区、瑞光寺境内の池に、クジラの骨でできた橋がかかっている。江戸時代の「摂津名所図会」も示す「雪鯨(せつげい)橋」だ。宝暦6(1756)年、太地から届いたクジラの骨18本で架けられた。

 

寺によると、行脚中に太地を訪れた同寺の住職が豊漁祈願を頼まれた。殺生の戒めを理由に一度は断ったが、不漁の苦しみに同情して祈願を行い、御利益あってクジラがとれたという。架橋は供養のためであった。

 

代々の住職が守り、架け替えてきた。いまのは令和元年に架設した7代目。遠山明文住職は「戒めを破って生きるざんげの気持ちを伝えてきました」と言う。

 

古式捕鯨の時代、巨大な生命体を仕留めた刹那、海の上には短い沈黙が訪れたようだ。九州ではクジラがころころと喉を鳴らして絶命するとき、南無阿弥陀仏を3度唱え「三国一じゃ、大背美捕りすまいた」と、掛け声をかける慣習があったという。

 

クジラを供養する石碑は青森、愛媛、大分など全国各地の沿岸にいまも残る。

 

供養のためクジラの骨でつくられた瑞光寺の「雪鯨橋」=大阪市東淀川区

 

成仏願う

 

極彩色が施された太地の捕鯨船に、宗教的な意味を探る研究者がいる。銛(もり)を打ち込む勢子船の意匠は筆頭の指揮者が乗る船が桐に鳳凰(ほうおう)、以下、割菊、松竹梅、菊流し、蔦模様と異なる意匠で飾られた。彩色は識別のためと説明されてきたが、微細な模様や多大な費用は実用性ばかりでは説明がつかない。

 

桜井敬人・太地町歴史資料室学芸員は、海のかなたに観音が住む理想郷があるという、補陀落(ふだらく)浄土信仰との関係を考えた。「極彩色に彩られた船でクジラを取り囲むと、海上に清らかな世界が現れる。クジラに浄土的な世界を見せ、成仏を願ったのかもしれません」

 

長崎県・生月島で捕鯨業を営んだ益冨家は、セミクジラの親子が寄り添って泳ぐ図柄の水墨画を絵師に描かせている。これは独特の捕鯨法に由来するものだ。

 

捕獲した子クジラを綱で船につなぎとめると、母クジラは立ち去らず、子をつなぐ綱をヒレで切ろうとする。この習性を利用して、親子もろとも捕獲した。

 

同島「島の館」の中園成生学芸員は「親子の情愛を利用する残酷とも思える方法だが、隠さず記していることに注目すべきだ。他の生き物の命を奪う避けられない必然を理解し、あえて残そうとしたのではないでしょうか」と話した。

 

 

自然敬う

 

太地漁港近くに、明治11(1878)年12月の遭難を記す碑が立つ。死者・行方不明者が100人超という大惨事で、子連れのセミクジラを追ううちに荒天に巻き込まれたことから「背美流れ」の名で伝わる。

 

仕留めた獲物も放棄した船団はばらばらに流され、伊豆諸島の神津島に漂着した者もいた。当時幼かった太地五郎作は後年、「幾日となく妻女らしき人々が大声を張り上げて泣き叫びつつ右往左往されていた」と、記憶をたどっている。

 

江戸初期から続いた太地の古式捕鯨だが、事故による壊滅的打撃を受けて終わりを迎えることになった。やがてエンジンと大砲による近代捕鯨の時代に入る。

 

あれから140年余。近代的な装備を施した太地の捕鯨船、第7勝丸の船長、竹内隆士さんは、こんなことを話した。

 

「クジラがとれると尾びれの先を切って船神さまに供えます。無事にとらせていただきましたと拝む。命をもらう感謝を、忘れてはいけないと思っています」

 

装備は変われど、自然を敬う精神は変わらない。「ふながみさま」という音が、耳に心地よく響いた。=おわり

 

◇参考文献
「新編日本古典文学全集68井原西鶴集3」(井原西鶴、小学館、1996)▷「日本の古式捕鯨」(太地五郎作、講談社、2021)▷「紀伊続風土記」(和歌山県神職取締所編、1910)▷「日本捕鯨史概説」(中園成生、古小烏舎、2020)▷「縄文式階層化社会」(渡辺仁、六一書房、2000)▷「江漢西遊日記」(司馬江漢、平凡社、1986)▷「元禄の鯨」(濱光治、南風社、1993)

 

 

未来につなぐ責任重く

 

クジラをめぐる探訪は、日本人の精神性を超えて普遍的なものに行き着いた。第4回で取り上げた「カンダラ」だ。誰のものでもなかった自然の富を、人類は線を引いて私有することを始めた。捕鯨家たちが独占に後ろめたい思いを抱き、小さな盗人たちを見逃していた事実は興味深い。

 

日本は令和元年に国際捕鯨委員会(IWC)から脱退し、商業捕鯨を再開した。保護という名の独占に対する、異議申し立てともいえるだろう。日本は自らの基準で資源を守る責任を果たすことにした。6000年もの歴史がある捕鯨を、未来につなぐ責任は重い。自然の恵みに対する感謝の思いも、引き継いでいくべき精神だと感じた。

 

筆者:坂本英彰(産経新聞)

 

 

2022年4月11日付産経新聞【わたつみの国語り 第2部(5)】を転載しています

 

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【わたつみの国語り】シリーズ
第1回:クジラは「資源」 捕鯨、工場制手工業の原点に
第2回:捕鯨は戦(いくさ)躍動する武の精神
第3回:包丁一本、威信かけ クジラ捕獲 昔も今も試される度量
第4回:堂々たる盗人、海の恵み求める

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